縁 起 |
貞観の古文書(福岡市指定文化財 飯盛神社文書) 銘:貞観元年己卯十一月十二日在原行平・在原業平 「九州筑前国早良郡崇廟飯盛権現本地神宮寺本尊釈迦也 貞観元年己卯七月三日御託宣の次第有り。文徳天皇天安二年戊寅五月五日寅時、 天皇夢想御覧になり諸郷評定有る所、瑞想現れ種々の霊異あり 五尺計りの明鏡紫宸殿に光り輝きて、雷電稲光一丈余の獅子吼え叫ぶ・・・・・・云々 即ちこれ吾が宮居の衆生の守り、国土の守りと彼の地を訪ねるに筑前の国は早良の郡 畏くも、天祖伊弉冉尊を齋祀る飯盛山に鎮座し給う飯盛権現云々と・・・・」 |
地 形 |
飯盛神社は福岡市の西区、早良平野の中心です 古代からの宮殿築城に相応しい「四神相応の地」と謂われます 東に清流室見川、南に早良平野の田園、西に北から南に延びる背振山系、 北には玄海灘に浮かぶ島々、即ち此の飯盛山を神奈備とします 天孫降臨の砌に 天太玉命(アマノフトタマノミコト)が伊弉冉尊(イザナミノミコト)を奉齋するを起源とします 上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し 飯盛三所権現宮と称し 上・中・下宮・神宮寺を設けていました 福岡平野を挟み、東には若杉山に坐す「太祖神社(伊邪那伎尊)」 西には飯盛山に坐す「飯盛神社(伊弉册尊)」乃ち夫婦山として 古代よりの国産み伝説の基であります |
創 建 |
貞観元年859 清和天皇は勅使和気清友を使わされ 飯盛山上・中・下宮、神宮寺の再建を命ぜられ就中 年中26度の神事祭礼を厳重に齋行せられました これ即ち、飯盛神社の創建であります 殊に、当社の古式祭典中 旧の一月十五日より二月の一日に渡り稲作御粥例の御神事があり この御祭に古えは勅使の下向ありて、いと厳重に神事執行せられ 右御粥披き相済し上帰京せらると 凡そこの神事は日本東西の神秘にして西三十三ケ国を筑前飯盛明神が神事執行すると 今に、宮田粥元穂垂田と云う田ありて御粥仕調の家筋厳重に執行いたします |
今 様 |
慶安3年(1650)飯盛神社の今の本殿か゛建立される 時は江戸、徳川禁令考・慶安の御触書発令される頃 勧農・節約など、日常生活全般にわたる細かい規定が幕府より布され 農村では、田の神や水の神等を祀り 春秋の祭りに特に生産に結びつく信仰が大事にされた 当飯盛神社もこの頃 庶民の信仰篤く、国主筑前牧黒田忠之公の御寄進の沙汰ありて 郡中広く年貢切り立て申し上げ、殊には寛文12年(1672)には 野芥村大庄屋永嶌惣右衛門 飯盛山の古代より神域なるを畏みてこの山8万6千坪を買い取り 当社に奉納せらる 実に飯盛神社の復興であります |
御祭神 伊弉冉尊(いざなみのみこと) |
古事記序に曰く 「乾坤ケンコン(天と地)初めて分かるるとき 三神(宇宙根源造化三神) 天御中主尊アメノミナカヌシノミコト・高皇産霊尊タカミムスビノミコト・神皇産霊尊カミムスビノミコト) 造化の首ハジメとなり、陰陽ここに開けて 二霊(伊弉諾・伊弉冉の夫婦二神)群品(森羅万象・八百万神)の祖(親)となれり この故に幽顕(現世と幽世)に出入して、日月(日神・月神)目を洗うに(禊ぎ)顕れ・・・・云々」 又曰く 「この二柱神天之御柱を廻りて始めて夫婦の道を初め給いて、国生み成さん・・・・云々」 産霊(むすび) 造化三神の“産霊”として天地(アマツチ)の道始めて交わる男女神 神世七代に坐す神なりと云う 日の本の国を生れ成し給いて国の基を造り整え 最果てに身罷り給いても黄泉国(ヨミノクニ)に往き幽世を治め給う 天地創造・生成化育・即ち無限の御神威が“産霊”であります |
五十猛尊(いたけるのみこと) |
素戔嗚尊スサノヲノミコトの御子なり 武勇の猛く坐す由の御名にして 天孫降臨の砌 木の種を持ちて来給う父大神に引かれて韓国に渡り遍く巡遊して到る処これを播き給いしが、さらに我が国にかえりて筑紫より全国に亘りて、その種を植え広め給う この故に森林守護の神として‘有功神’イサオシノカミとも謂います またの御名を‘大屋比古神’オオヤヒコノカミとも謂います |
玉依毘賣命(たまよりひめのみこと) |
綿津見神(海洋支配の神)御娘にて、葺不合命フキアエズに嫁して五柱の御子を生み給う 実に、神武天皇の御母后にてあり給う |
品陀和気命(ほんだわけのみこと) |
応神天皇オウジンテンノウ 仲哀天皇の皇子にして、御母は神功皇后にてあり給う |