旧、飯盛神社の宮司坊神宮寺  現、天台宗成就院飛地文珠堂













本尊佛  福岡市文化財指定
木造文殊菩薩騎獅像
(もくぞうもんじゅぼさつきしぞう)

願主大旦那 
當寺本願因幡次郎左エ衛門尉康成

体内前部墨書銘
佛師 堪幸法印
元弘三年九月二十日造始
塗師 源兵衛尉政貞
暦應三年八月六日塗始(漆塗)
   (京都東寺の大工)


心木銘文記録
佛師 播磨坊実阿弥
綵色繪師規矩大工
治部房良心弟子三位房良実

板碑(マン)銘
貞和五年丑八月九日
大尼慈善
総高216cm
(檜材寄木造)


座像74.3cm

 



飯盛文珠堂正面

縁 起
神仏習合両部の時代
七宇の末寺を有する飯盛神社の宮司坊真言律宗神宮寺
号して飯盛山真教院
伏見院の永仁六年戊戌(1298)因幡二郎左衛門尉康成の開基にして
康永元年七月二十五日(1342)に本堂安置を終え、博多大乗寺長老暁海上人を
導師として開眼法要を行いましたのが当神宮寺の開山であります

当時、仏教思想が全国に普及した折り、仏又は菩薩が衆生済度の方便として
和光同塵
仮に種々の身形を現ずる事を信じ本地垂迹の説により此の権現の思想を
我が国在来の諸神に結びつけ我が国の神祇は仏に帰依せらるるとの信仰に生じ
神は仏の“かり”に化現したものであるとし、此処に神宮寺が生じた次第であります

大和の国唐招提寺を総本山とし西大寺の末寺として西大寺流の繁栄と共に栄え
“七堂伽藍”の大寺とし末寺七ケ寺を有し
飯盛神社と共に隆昌を極めましたが
足利幕府の衰乱に廃地となり文珠堂のみ僅かに残りました

寛文の頃(1660)これを再建し
福岡源光院の弟子澄海を招いて庵主とした
此れ即ち神宮寺の再興であり
是より天台宗となり元禄年中(1690年代)には比叡山正覚院に属し
藩主より三千六百坪の寄進がありました

本寺及び末寺の全く廃寺となったのは実に廃仏毀釈の砌であり
現在成就院の飛地境内として地元崇敬者等の手により
「飯盛文珠堂保存会」が結成され力強くお護り申し上げております









堂を三回廻る(文殊の力を頂く事か!) 町民達は、頭首を垂れて健康を祈る!
智恵の湧水(滾々と湧く水は知徳と健康を!) 寺内の十三佛像